[仮公開版]ただいま。 第一部

1章 ある雨の日の話

これは、ある雨の日の話。

「私、留学しようと思っているの」

彼女からそう告げられた。
その瞬間、雨の音が聞こえなくなった。

「帰ってくるの?」
声にならないような、弱い口調だった。

「分からない。一年くらいかな。」
彼女はそう言って視線を逸した。

ああ、もう帰ってこないんだな、と。

駅の改札前、雨の音が強く感じた。

その日はバレンタインデーだった。
帰り際に渡されたのは手作りの大きなお菓子の家。

お菓子の家は、家でゆっくり食べた。
チョコレートなのに、味がしなかった。

なくなってしまった

朝起きて、仕事に行って、帰って寝る毎日。
「何の為に働いてるんだっけな」
部屋で一人、そう呟いた。

それから暫くして、彼女とビデオ通話をした。

画面越しに見る彼女は、どこか楽しそうだった。
俺の知らない人、俺の知らない場所の話。

ああ、もう違う世界にいるんだな。

「俺もオーストラリアに行くよ」
追いつきたい。
ただ、それだけだった。

だからこそ、俺は彼女を縛りたくなかった。

その日、俺は彼女と別れることにした。
鷲のように高く飛んでいけと願いながら。

パソコンの画面に、自分が写っている。
いつもの部屋から、明かりが消えた。

その日も、雨が降っていた。

2章 決断と行動

あれから数日後のこと。

オーストラリアに行く決意は揺らいでいた。
それでも、言ったことに責任を持ちたいと思った。

そして俺は退職を決意した。
仕事の日程を調整し、退職の時期を決めていった。

以前からそれとなく伝えていたが、改めて上司に伝えると、
「意思は、硬いのか?」
と優しく確認された。

「もう決まったことなんです」
こう伝えると、上司は微笑んだように「頑張っておいで」と言ってくれた。

こうして俺は後戻りできなくなった。

ビザを申請して、
飛行機のチケットを取り、
必要な手続きを一つずつ終えていく。

その度に、逃げ道が一つずつ塞がれていく気がして、怖くなった。

「やっぱり、やめようかな」

何度も、この言葉が頭をよぎった。
その度に、前に進んだ。

行かない理由はいくらでも思いつく。
でも、行かなかった未来の俺が、背中を押してきた。

やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがましだ。
そう自分に言い聞かせて、なんとか前を向いた。

正直に言うと、怖かった。

家も、仕事も、安定も、日常も全て失うことが。

周りからも「やめとけ」と言われた。俺はこれまで築いてきたものを、自分の意思で手放そうとしている。

何をやっているんだろうか、と何度も思った。

それでも、出発の日は近づいてくる。

今ならキャンセルできる。
ちょっと職歴に傷が付くくらいで済む。

そう思った。

でも、素直に行きたかった。
どうしても、行ってみたかった。

そして、出発の日が来た。

お父さんが駅まで車で送ってくれた。
最後にお茶とお菓子を渡してくれた。

「向こうで食べな」

空港行きのバスに乗り込んで、席に座る。
袋を開けて、お茶を飲み、お菓子をかじる。

窓の外に、見慣れた街並みが流れていく。

何度も通った道。
何度も見た景色。
何も特別ではない、ただの日常。

「もうこの景色は見れないんだな」
ふと、そんなことを思った。

帰ってくるつもりで出るはずなのに、
なぜか、二度と戻ってこれない気がしていた。

3章 孤独の始まり

バスの揺れに身を任せているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

目を開けると、辺りは真っ暗だった。
窓の外には見慣れない光が点々と並んでいる。

「着いたか」

気がつけば空港だった。

寝ぼけたまま荷物を抱えてバスを降りる。
一歩進むたびに、何かが失われていく感じがした。

持っているのは、片道のチケットとスーツケースだけ。

チェックインを済ませ、搭乗まで待っていた。

飛行機の座席に座る。

エンジンの音と共に、窓の外の景色がゆっくりと遠ざかっていく。
日本の地が、見えなくなった。

半日ほどのフライトだった。

妙に冷静な気持ちで機内食を食べた。
これからの生活のことを考えていたら、そのまま眠っていた。

オーストラリアへ到着して、目を覚ました。

飛行機を降りて、見慣れない英語の案内板を見たとき、
ようやく実感が湧いた。

空港の出口で待っていると、暫くしてから元彼女が現れた。
久しぶりに見る顔は、もう俺の知っている顔じゃなかった。

電車の乗り方や、スーパーでの買い物の仕方、
生活に必要なことを一つずつ教えてもらった。

俺は半歩後ろを歩いていた。
そして、会話はなかった。

ここから先は、独りで生きていかなければならない。
そう直感した。

数日は元彼女の部屋に泊めてもらった。
知らない街で、知っている人がいるということが、
どれほど救いになるのかを初めて知った。

数日後、俺は元彼女の部屋を出た。

スーツケースを引きながら、外に出たとき、
人生で一番の孤独を感じた。

ここからは独りだ。

決して帰れない。
行き先は無い。
友達もいない。
誰も助けてくれない。

足がすくんだ。

これが、俺の旅の始まりだった。

4章 賑やかな孤独

スーツケースを引きながら、必死にスマホで今夜泊まる場所を探していた。

少し離れたところに安いゲストハウスを見つけた。
全然英語が話せないのに、どうやって予約をするのかと躊躇した。

大丈夫。
死にはしない。

思い切って電話をかけてみた。
カタコトの英語で、電話越にも関わらず身振り手振りで説明した。

なんとか予約に成功した。
今夜から一週間は泊まれるみたいだった。

ゲストハウスまでトラムという路面電車で30分くらいだった。
意味のわからない車内アナウンスが耳に残り、スマホの地図アプリを眺めていた。

ゲストハウスの建物が見えてきた。かすかに音楽が聞こえてくる。
思い切って重い扉を開けた。

受付の前には旅行者らしき人たちが談笑している。
当然のように俺の知らない言葉を交わしている。

受付にはパイナップルが似合いそうなオレンジと水色のストライプシャツを着た男性が楽しそうに話している。

待っていると目が合った。

“How are you?”(調子はどう?)
気さくな男性は話しかけてきた。

受付の人がなぜ調子を聞いてくるのだろうかと思いつつ、絞り出すように答えた。

“I’m Watanabe.”(ワタナベです)

何だかよくわからないことを説明されてから部屋に案内された。

部屋に入ると、二段ベッドがいくつも並んでいる。
知らない人の荷物がベッドの上に置いてある。
持ち主は、どこかに出かけているようだった。

とりあえずご飯を買いにいこうと思い、近くのスーパーマーケットに行った。

見たことのない商品が並んでいる。
食べ慣れたお菓子もない。
そこは俺の知っている”世界”ではなかった。

「あ、いちご……1ドル?!」

なんといちごが一パック100円で売られているのだ。二パックかごに入れた。

「お、醤油もあるね。でも日本産じゃないね。」
あとは調味料や鶏肉などを買った。

夜になると人が集まってきた。
同じ部屋のイギリス人やフランス人と話して、時間を過ごした。

夜ごはんに、キッチンで簡単な日本食を作ってあげたら、「日本料理だ!」と言って喜んでくれた。

数日もすると、自然と会話が増えていった。
昼過ぎに一緒にビーチに行った。

異国の地で、俺は初めて笑った気がした。

でも、俺は彼らとは決定的に違っていた。

彼らは観光で来て、楽しんで、
次の場所へと旅立っていく人たちだった。

俺には次がない。

この街で、生きなければならない。
仕事を見つけて、生活を成り立たせなければならない。

楽しんでいる彼らの姿を見るたびに、
自分の置かれている立場との落差に苦しんだ。

仲良くなっても、数日後には彼らはいなくなる。
また新しい人が来て、また仲良くなって、また別れる。

友達を作っては失ってを繰り返すうちに、
俺は人に疲れていった。

それでも、笑って今日も同じ話をするしかなかった。
「どこから来たの?」

この時間は、楽しいはずだった。
はず、だった。

5章 家族がある孤独

ゲストハウスの生活は、長くは続けられなかった。
宿泊費が高すぎた。

俺は、ホームステイを探し始めた。

いくつか問い合わせをしてみたが、なかなか受け入れてくれるところが見つからなかった。
英語もうまく話せないまま、事前のやり取りもなしに、
わざわざ家に迎え入れたい人は多くはなかったのだと思う。

それでも、ようやく一つだけ受け入れ先が見つかった。

ゲストハウスよりかは、安かった。

一週間、そこに泊まることになった。

ホストファミリーと食卓を囲んで笑い合う。
そんな時間はなかった。

ホストとの会話は必要最低限。
食事もそれぞれのタイミングで、淡々と済ませる。

ビジネスとしてのホームステイだった。
他人でも、家族になれると誤解していた。

現実は、「他人は他人」だった。

ある日、ホストの親戚と孫が家に来た。
俺は、部屋に戻り、ドアを閉めた。

リビングから楽しそうな声が聞こえてくる。

彼らが帰るまで、何時間も息を殺していた。
俺は、家族ではない。
外国人の余所者。

ここは、俺の居場所ではない。
俺は邪魔者だった。

6章 孤独な安心

価格を抑えるため、俺は新しい家を見つけて引っ越した。

そこはシェアハウスで、
1つの戸建てに5人で暮らすことになった。

大きな共有スペースとキッチンがあって、
廊下の奥にそれぞれの個室が並んでいる。

個室で、1人でゆっくり眠れる。
それが、久しぶりで嬉しかった。

「異文化交流!楽しいシェア生活!」
そんなものは、なかった。

派手さは無い。
静かに淡々と、人が暮らしている家だった。

顔を合わせたら、
「今日は仕事どうだった?」と雑談をしたり、
過去の仕事や生活の話をしたりした。

ゲストハウスでは楽しい話をしていたが、もっと静かでひっそりとした会話だった。

自分を取り繕って楽しいフリをしなくてもいい。
日常を日常として扱っていい。

それだけで、安心した。

彼らはこの国で長く生活している人たちだった。
仕事の探し方や、履歴書の書き方、銀行口座のことまで、
一つひとつ教えてくれた。

特別に助けてあげようという雰囲気でもなく、
ただ「知らないなら教えるよ」という、
一人の人間として扱ってくれている距離感だった。

その距離が、ありがたかった。

気を遣わなくていい。
無理に仲良くならなくていい。

俺はこの国に来てから、
初めて「独りで生きていけるかもしれない」と思えた。

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