「断る」という行動ができたわけ

この記事の結論・最も伝えたいこと

この記事で私が一番伝えたいのは、
男性である私が「断る」という行動を、ほとんど何のリスクもなく取れていたことに、
気がついたという話です。

そして、その「当たり前」が、
同じ教会にいる女性にとっては、
必ずしも当たり前ではない可能性がある、という点です。

この文章は私の思考の記録であり、男性である自分の立ち位置を理解するためのものです。
誰かを断じたり批判したりする意図は含まれません。

ずっと心に残っていた違和感

私の通っている教会には、1年間かけてより深く聖書を学ぶ訓練コースがあります。
そのコースについて、以前から心に残っている出来事がありました。

それは、コースの途中や完了後に教会へ来なくなってしまう女性が複数見受けられたことです。ある時から姿を見かけなくなり、そのまま戻ってこなかったのです。

同じコースの男性にも同様の事象がある可能性は否定出来ませんが現状では女性からその傾向が垣間見えたという話です。

これは訓練コースそのものの批判ではなく、それによって気がついた違和感から派生したものです。

参加中の女性との会話

ある日、その訓練コースに現在参加している女性と話す機会がありました。

その会話の中で、彼女はこのように話してくれました。

「聖書のマリアのような女性像を期待されていることが、正直しんどい」

その時はその話題が深堀されることはありませんでしたが、数日経ったある時にあることに気が付きました。
かつて、訓練コースに参加していたが現在に至って教会に来なくなってしまった女性たちの存在との関連についてです。

これは私の推測ベースですが、彼女たちは「断れなかった」 のではないかと思いました。
私は自分自身を振り返ってみると、容易に断れる環境にあったと感じました。
そしてそれは、男性であるがために断るという選択肢が最初から存在していたという仮説が立ちます。

例えば、その訓練コースに誘われた時には、「今はその時ではない」という理由で参加しないと明確に断っています
私の留学経験から帰国者支援の奉仕も数回参加しましたが、参加後に明確に断って抜けました

私にとって、断ることは普通の選択肢であり、なんなら断る方が自分らしい気さえします。

気遣いの非対称性

興味深い構造に気が付きました。例えば、「気遣い」についてです。

社会的に、女性は気遣いができて当然だと見なされているように私には映ります。
一方で男性は、「自分のことは自分でやれ」と言わんばかりに相手のことを気遣いません。そしてそれが当たり前であると感じています。

つまり、暗黙的に「気遣い」は女性にとっては「前提条件」であり、男性にとっては「加点要素」 になっているように見えます。これは差別や価値観の押し付けではなく、私が文化から読み取ったものの言語化です。

マリアのような女性像に関する仮説

マリアのような女性像が理想として語られるとき、そこでは従順さや、受け入れる姿勢が暗黙的に強調されていると私は解釈しています。

もし解釈が正しいのであれば、そのイメージが「断らない」ことや「耐える」方向に働くとき、断るうえでの不都合が生じるのではないでしょうか。
断ることで相手の善意を踏みにじってしまうのでないのか、また断った場合は相手を困らせるのではないかと思ってしまうのでしょうか。

少なくとも私の生きてきた男性社会では、断ることも断られることも当然のことだと認識しています。
頼みごとは相手に労苦を強いるという前提に基づけば、それが必ず受け入れられると期待することは明らかな誤りです。

この文章を書こうと思った理由

以前より、心に残っていた違和感が、1つの相談をきっかけに言語化できるようになったのでそれを記しておきたいと思ったためです。

男性である私には当然である「断る」というアクションが、女性の世界からは違って見えている可能性があると感じたためです。もうちょっとこの構造を言語化できると何か変わるんじゃないかと思ってやみません。

またこれらの内省を通して、私が男性として生を受けた目的と理由、そして役割は何であるかを考える機会にしたいと考えています。

少なくとも、黙って消えていった人たちのことを、なかったことにはしたくないと思っています。

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